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ニューズレター112号「湧水と天平の国分寺へ」

 計り知ることのできない太古の昔にできた国分寺崖線(こくぶんじがいせん)から湧き出る水は、蛍も生息するほどの清さです。また、天平の時代に建立された武蔵国分寺(むさしこくぶんじ)の跡、どちらも見たいと思っていましたが、まだ暑い9月2日にやっと行けました。

 

 蔵野線の西国分寺駅は学生時代に乗り換えに利用した駅でしたが、当時1度も降りた事はありませんでした。降りた事のない駅を降りるのは、「どんなものがあるのだろう?」など、楽しみです。その西国分寺駅で自転車を借りて府中街道を進むと、周りの風景はマンションや団地が続きます。

 平坦な府中街道から一歩入り坂を下ると突如、お寺の山門が建ちます。「あー、のどかだな」。と、その佇(たたず)まいは山里に来たようでどこか懐かしい雰囲気です。

 その門の前に武蔵国分寺の跡が整備されています。「奈良にでも来たみたいだな」。広い国分寺跡は金堂や鐘楼跡(しょうろうあと)の礎石(そせき)を表し、復元される以前の奈良の平城宮跡(へいじょうきゅうあと)の写真に見た雰囲気です。

 

武蔵国分寺の鐘楼(金つき堂)跡

 

 東大寺の記録では1288年前の天平5年に、聖武天皇の皇太子で、一歳の誕生日を迎える事が出来なかった基親王(もといしんのう)の供養のため、金鍾寺が建立されました。その8年後の天平 年に、国民の幸せと平安を願う聖武帝により、各国に七重塔を建て国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)が置かれる事になります。

 

 国分寺が置かれる事により、奈良の金鍾寺が東大寺の前身の大和金光明寺(やまときんこうみょうじ)として昇格。この時代は政変や飢饉と凶作。それに大陸から九州に入り込み、日本全国に蔓延したという疫病、天然痘が猛威を振るった時でもありました。

 

 「疫病に関しては、今も同じ・・・」こんなに進んでいる現代でも、経験したことが無い新型コロナウイルスと言う疫病の脅威に晒されています。約1300年前では情報や対策法も乏しいと思います。今よりもっと大変だった事でしょう。

 色々な良くない要因が重なり、国分寺が置かれた2年後に国を守ってもらうようにと「大仏造立の詔(みことのり)」が下されます。東大寺は国分寺の本山に。奈良の法華寺(ほっけじ)は国分尼寺の本山となったそうです。

 

レンガで組まれた所が、国分寺の金堂後となります。

大きな木が長い歴史を見ているようでした。

 以前、歴史の番組で「なるほど」と思った事があります。都の東大寺と各国の国分寺は今で言う通信機器やコンピューターの役目も担っていたそうで、中央の事を各国に伝え、また地方で起きた事など中央に知らせる情報収集の機関でもあったそうです。

 

 都と現在の府中市にあった国府を結ぶ古代の官道、東山道武蔵路沿いに武蔵国分寺と国分尼寺が建立されました。東山道(とうざんどう)と言う道、あまり聞き慣れない道ですね。江戸時代になると江戸を中心とする五つの街道が整備され、東山道はその中の幹線道路としての中山道、奥州街道、日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)などに再編されたそうです。浦和と大宮の人たちが慣れ親しんでいる中山道より、もっと古い道なのですね。

 

 現在も府中街道から入った東京都公文書館前に東山道の一部が残り、その先の坂を下ると国分寺跡があります。」この坂を下りましたが、けっこう急でした。この高低差こそが太古からの恵みをもたらす事となります。そちらは後ほど書かせていただきます。

 

 各国の国分寺のなかでも、武蔵国分寺が全国的にもかなり大きい寺院だったそうです。

 その国分寺跡に立つと、「ここが天平時代にあったんだ」。歴史好きな私は、ものすごく感動いたしました。国分寺の跡は判っていたようですが、国分尼寺の跡は長い間不明だったそうで、江戸時代には瓦などが出土していたとの事。明治になり郷土史家の方々により跡の場所が確定されたそうです。

 

 

金堂跡の前に建立された石碑と大木

 

 大正11年に国の指定史跡に指定され、それを記念して、「史蹟 武蔵國分寺址 大正十三年十一月建設」と刻まれた大谷石の石碑が、金堂跡に生えている大きな木を背景に建ち天平の古から現代までの時間の流れを感じます。

 大きな木の下にしばらく休憩すると木の陰を抜ける風が心地よく、「この当時、ここの国分寺は儀式にどんな音楽を演奏したのかな?」とか、「でも、いつ寺院が無くなってしまったのだろう・・・?」など、そんな事を考えていました。

 

 

現在の国分寺の寺標

桜が咲くと、キレイでしょうね。

 

今度は現在の国分寺へ。山門をくぐり本堂へ。境内は万葉植物が植えられ静寂です。その本堂から石段を登ると、立派な山門があり、武蔵国分寺と書かれた扁額(へんがく)が掛けられたお堂があります。

 こちらは687年前の建武(けんぶ)元年に新田義貞公(にったよしさだこう)の寄進により再建されたそうです。「何で新田義貞?」と思いましたが、鎌倉時代に今の府中市分倍河原で起きた、北条氏率いる幕府軍と、新田義貞公の戦いがありました。分倍河原(ぶばいがわら)の戦いと言われるそうで、幕府軍に迎撃された新田義貞ですが、敗走の際に武蔵国分寺が焼失したと伝えられているそうです。その翌日、多くの兵を引き連れた新田義貞が勝利いたします。

 きっと、古い時代に国民の平安を願う為に国が建てた寺院を焼失させてしまったので、再建の寄進をしたのでしょうね。

 

現在の国分寺

お庭もキレイで、奈良か京都に行った様な雰囲気です。

 国分寺を後にし、辺りを散策します。この辺りは閑静な住宅街で、お庭もキレイにされているお家が多く、木々も手入れされていて気持ち良い通りです。中でも、養蚕農家さん特有の高く大きな屋根のお家もあり、ここが養蚕が盛んだった事を思わせる所でもあります。国分寺までもどり、いよいよお鷹の道へ。(つづく)