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ニューズレター第108号「楽しかった大人の遠足」

 この度、新型コロナウィルス感染症に罹患された方々には謹んでお見舞い申し上げますとともに、一日も早いご快復を心よりお祈り申し上げます。 一日も早い事態の収束を心よりお祈り申し上げます。

見沼代用水西縁から見沼通船堀の入り口

 5月25日、新コロナウイルスに対する緊急事態宣言が解除されましたが、予定されていた総会や会議など全て中止になり、定休日の水曜日をゆっくり過ごすきっかけにもなりました。しかし、まだ街に出る気になりません。「そうだ、自転車に乗ろう!」人があまり居そうにない所はどこだろう?

 「中学校の時の遠足コースがいいかな」。梅雨の前でよく晴れた5月27日遠足気分で出かけました。

 

 「確か、東浦和駅から通船堀を見て芝川へ。駅前の道を通って清泰寺に行ったよな。そこからは田んぼの道を通って、氷川女体神社から国昌寺、文殊寺へ行ったかな・・・?そうとう長い距離を歩いたよな!」。中学生の時から数えて35年ぶりくらい、うろ覚えです。

 

 東浦和駅から見沼通船堀に向かいます。見沼代用水西縁や通船堀には桜の葉が青々と、初夏の涼しさを感じさせます。「こんなに細い川だったかな?」見沼通船堀に流れる水は浅く流れるからか、透明感があり、きれいです。堀沿いの道は確か当時は砂利道だったと思いましたが、今はキレイに整備されております。

 

 「あれ?こんなのあったかな?」西縁一の関と書かれた標識の所に閘門(こうもん)が再現されています。「面白そう!」実際にその閘門を使っている所を見てみたいと思いました。しかし、見沼通船堀は長い見沼の歴史の一部。大きな2つの川の流れを変えるところからの、大変な事業から始まります。

見沼通船堀の西縁。浅く流れているせいか、水がきれいです。

 縄文時代に海が入り込んでいたこの地は、弥生時代には海岸線が後退し沼地になったそうです。入江も多く点在し、その岸に沼の神様をお祀りしたのが、大宮の氷川神社の始まりだそうで、見沼の低地に突き出た大宮台地から湧き出る泉は、古語で霊験あらたかな泉を表す「氷川」がその社名となったようで、また出雲の斐伊川に由来する等の説があるようです。

 氷川神社楼門前の朱の橋が掛かる神池が見沼の一部で、その源からは、現在もこんこんと、清んだ水が湧いています。また、この清らかな水が豊富なので、その昔は氷川神社周辺の大宮には造り酒屋が何軒かあったと聞いた事があります。

 氷川神社のご神紋には巴型の出雲の八雲に囲われ、見沼の中にハート型の水草が中央に2つある事でも、出雲と見沼との起源が伺われます。

大宮・氷川神社の御神紋

(御朱印帳より)

 さて、大事業の始まりです。

時代はだいぶ下って、それまでの利根川と荒川は現在の越谷市付近で合流し、氾濫を繰り返しました。江戸時代初期、徳川 家康公の名により2つの川を引き離しその跡を一大水田地帯にする大土木事業が行われます。

 

 利根川は426年前の文禄2年から60年かけて、流れを少しずつ東に移していく工事が行われ、この工事でそれまで東京湾に流れ込んでいた利根川は、千葉県の銚子で太平洋に注ぐようになりました。

 荒川は35年後の寛永6年流れを西に移し入間川・隅田川を通じて江戸湾に注ぐように工事をしました。これを利根川東遷、荒川西遷と言います。

 

 学生時代、神奈川から通う友達に、「埼玉は海も無いし、荒川も河原がなくて、どこで日焼けすんだよ?」と言われたことがあります。その時は「確かに土手かも・・・」と思いましたが、今思えば河原の無い荒川こそ幕府が築いた大都市の証で、すごい事でした。

 

 2つの大きな川が移動し、その跡の池沼地帯では耕地を広げるために池沼の水を排水する落し川や農業用水を貯めておく溜井がいくつも造られました。

八丁堤付近の芝川

 この大事業を行ったのは、伊奈備前前忠次と一族です。忠次の次男半十郎は荒川の流れを遷した同年に、今のさいたま市東部に広がっていた見沼の東岸と西岸が最も近づく附島(さいたま市緑区)と川口市木曽呂の間に約八町(約872㍍)の長さから八丁堤と呼ばれる堤を築き、見沼へ流れ込む水を貯留しました。これが見沼溜井となります。

 

 中学生の時から勉強が苦手でしたが歴史は好きで、今でも覚えています。でも、きっと忘れている事もありますね。

 

 当時、この沼は琵琶湖の半分の大きさだったそうですが、平均の水位が1㍍ほどの浅い沼だったようで、時折干上がる事もあると聞いた事があります。また、低い土地では度々水害を起こしたようです。

 

 見沼たんぼが開かれたのは時代が下り江戸時代中期、徳川 吉宗公の時代です。幕府は財政を改革するために、享保の改革を行います。その一環として米価の安定ため、新田開発を奨励しました。そのひとつが見沼田んぼでした。吉宗公と同じ紀州藩出身で高い新田開発の土木技術を持つ井沢弥惣兵衛に、池沼の新田開発が命じられました。

見沼田んぼですが、田んぼは姿を変え、現在は畑となっています。

 293年前の享保 年に見沼溜井の八丁堤を切り、干拓されます。見沼田んぼの誕生です。

「えっ、日本一の琵琶湖の半分の大きさの沼をそんなに早く!」と授業でその工事には半年も掛からなかったの覚えています。見沼田んぼには芝川と見沼代用水は引かれ、利根の分け水は大きな恵みをもたらします。

 

 見沼たんぼが開かれてから盛んに稲作が行われ、特に戦後は食糧増産を支える貴重な農業生産の場となったそうです。

 

(次号へつづく)