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ニューズレター105号「まばゆい美しさ・・・」

  皆様いかがお過ごしでしょうか。今年もあっと言う間で暮れてしまいます。寒いので風邪などご注意ください

 このニューズレターは2019年11月に「夢Kanou」会員様へ発行したものです。(※2019年8月に平泉を訪れた時の内容です。)

 

 

 巨大なご本尊と、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)よりご分火された「不滅の法灯(ふめつのともしび)」が奉安された本堂を出ると、きれいに保たれたいくつかのお堂を左右に見て、金色堂(こんじきどう)へと続きます。

「やっと来られた!」大きな桧の下、金色堂と書かれた石柱に芝と苔の緑。その真ん中を列も美しいなだらかな石段が金色堂の覆堂まで続き、その佇まいはよく観光案内書などで見る風景です。

 石段を登りいよいよ堂内へ。照明が抑えられた堂内は厳(おごそ)かな雰囲気です。多くの参拝者でしたが、シーンと静か。「これは美しい!」金色堂の真横から正面へと移動いたしますが、斜めから観る金色堂はまた美しい。

 中尊寺は平安期に、世界三大旅行記のひとつ「入唐求法巡礼行記(※1じっとうぐほうじゅんれいき)を書かれた比叡山の三代目座主・慈覚大師円仁上人(さんだいめざす・じかくだいしえんにんしょうにん)によって1169年前の嘉祥(かしょう)3年に開かれました。

 

 

金色堂の覆堂。檜の大木も歴史を感じます。

 その255年後の長治(ちょうじ)2年、11世紀後半に東北地方で続いた前九年(ぜんくねん)・後三年(ござんねん)の合戦で亡くなった人々を敵味方なく慰め、仏様の教えによる平和な理想社会を建設しようと、藤原 清衡公(ふじわらのきよひらこう)によって大規模な堂塔の建立が行われます。その19年後の天治元年、金色堂は上棟されました。金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物だそうで、今に伝わります。

 お堂の内や外に押され輝いた金箔、遠い異国の海よりシルクロードを渡って来たという、夜光貝を加工した螺鈿細工(らでんざいく)。象牙や宝石が施された柱や梁の装飾や、煌(きらび)びやかな瓔珞(ようらく)など荘厳を極めた金色堂です。

「何て美しいのだろう・・・。極楽浄土って、こんな美しい世界なのだろうな!」と、特に孔雀が表された須弥檀(しゅみだん)がとても美しく、その上に座す阿弥陀如来(あみだにょらい)や観音様などの仏像も眩いばかりです。

 また、対照的に木で葺かれたと言う屋根は、装飾が施されておらず、朽ちた部分など創建からの時間を伝えているようで、感動いたしました。「いつまた来られるのかな?」学生の頃からずっと訪れたいと思っていた金色堂、その美しい姿をしばらく眺めていました。

 この須弥壇の中には初代清衡公'(きよひらこう)をはじめ、二代基衡公(もとひらこう)、源 義経公を平泉に招いた三代秀衡公(ひでひらこう)、四代泰衡公(やすひらこう)の棺が、今でも納められているそうです。

 金色堂は京都市、広隆寺の弥勒菩薩像などと共に今から68年前の昭和26年に国宝第一号として指定され、また平成23年には「平泉の文化遺産」として世界文化遺産に登録されました。

金色堂を出ると「五月雨の 降り残してや 光堂」松尾 芭蕉の句碑が建ちます。

 

 

約500年もの間、金色堂を守った旧覆堂。

  その先には昭和37年まで使われていた覆堂が建ちます。「こんなに広いんだ」。堂内の椅子に座ると、涼しさが気持よく、ついうとうと・・・。芭蕉の時代はこの覆堂が金色堂を風雪から守ったのですね。

 次は毛越寺へ向かいます。その途中、一関市出身の友人から聞いた「夢乃風」さんへ

岩手と言えば、わんこそば。また、一関やこの辺りでは餅料理が有名で、一度に両方食べられる、そば屋さんです。「わっ、きれいだな!」。そばと餅料理が整然と並べられ、見ても楽しいです。

 

わんこそばと、餅料理。山菜やとろろなどの具を、そばと一緒に食べます。

 初体験のわんこそばは、店員さんが次々と横から入れてというような事はなく、手のひらに収まるくらいのお椀に一口づつ盛られています。スルっと食べやすく、そばもしっかりとし、汁も甘め美味しかったです。餅は枝豆を餡にしたずんだ、小豆、珍しいエゴマが絡み、歯ごたえがあってとても美味しい。こちらもちょうど良く一口づつでしたが最後にはお腹もいっぱい。

 さて出発です。大通り反れ地図を頼りに横道を進みます。山や川、田や池があったりと高台から観る景色は心の洗濯とは大袈裟ですが、身も心も洗われたよう。毛越寺(もうつうじ)に着くと、本堂の右側に広がる広大なお庭は浄土式庭園と呼ばれ、島なども平たく洲のように造られて、雅な雰囲気です。

 

毛越寺の浄土式庭園。夕日の時間は、特にきれいだと思います。

「美しい」。ずっと見ていても飽きません。池の周囲を廻ると、かつてあったお堂の跡が苔むして何とも寂しいような雰囲気です。

 上から流された盃が自分の前を通り過ぎるまでに和歌を詠むと言う曲水宴(きょくすいのえん)。烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)など平安装束を着け、さぞかし典雅でしょうね。遣水は人工的に造られたと思いますが、まるで自然の流れのようで、当時の日本人のセンスを伺えるようです。

 

 

曲水宴(きょくすいのえん)を行う遣水(やりみず)

 毛越寺は中尊寺と同く、慈覚大師円仁上人(じかくだいしえんにんしょうにん)がお開きになりました。その後、藤原氏により多くの伽藍(がらん)が造営されたそうですが藤原氏滅亡後すべての建物が焼失いたします。

 私が学生の頃は当時は「寺だけど、本堂が無いんだよね」。と言う話を聞いていましたが、毛越寺本堂の復元をする番組を見て「このお庭、観てみたい」と思ったものです。

「なんて美しいのだろう」。穏やかな池や青々とした松。周囲の山もお庭の一部となり、非日常のこの空間。またいつか来たいと思いました。次回は松島へ・・・

 

 

※1 マルコ・ポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「大唐西域記」、とともに東アジアの三大旅行記といわれます。 入唐求法巡礼行記は慈覚大師が入唐して中国各地を巡礼し、10年間に経験した見聞を克明につづりました。